現在の事態は不況か恐慌か

横浜市立大学名誉教授/ちきゅう座運営委員長 田中正司

T)なぜ不況と恐慌を区別する要があるのか

昨秋来世界を席巻している金融危機は、不況か恐慌か。どちらか明確にする必要がある。用語の選択を誤ると、問題解決のための対応を誤ることになるからである。不況と恐慌の差異については、もとより、専門家の間ではさまざまな解釈がなされており、一義的に断定できない。不況と恐慌との間には本質的な区別はなく、恐慌は大規模な不況、不況の極限状態にすぎないと解する方が一般的かもしれない。しかし、需要と供給との不均衡に基づく好況―不況を字義通りに解すれば、不況なら、しばらく我慢して生産調整をすれば、自然に元の経済水準が回復され、やがて好況に転ずることになるであろう。需給の均衡点という子午線を中心にアップ―ダウンを繰り返すのが需給関係に基づく経済関係の自然法であるからである。ましてや、国家や中央銀行が財政・金融政策で需要拡大を図れば、麻生首相のいうように3年先には景気が回復し好況に転ずることも、あながち口から出任せの放言ということにはならないかもしれない。
しかし、現在の事態が不況ではなく恐慌ということになると、話は根本的に異なる。恐慌は、仮にそれが不況の一種、その極限状態にすぎないものであるとしても、しばらく我慢すればやがて現在の経済水準が回復される不況と異なり、人為的需要拡大をしない限り、現状を回復できない点に原理的な特色をもつものであるからである。恐慌は、絶対的供給過剰で、需要を超える供給の過剰分をカットし、経済水準を実需(に基づく有効需要)水準に下げない限り、バランスを回復できない。オーバーカットされるとき、低下した新しい経済水準で改めてアップ―ダウンが始まるのが恐慌である。それは経済関係が需要―供給関係という経済世界の自然法則に従うものである限り当然の帰結である。
自然の生態系は、オーバーカットをすることで、種の保存と全体バランス、持続可能性を保持しているが、恐慌は、経済世界の自然の摂理で、経済活動がアップ―ダウンの自然法則を超えて肥大化し、自己回復力を失い、破局に陥ったとき、需給のバランスを回復し、経済生活を持続可能にするための天の配剤とでもいうべきものなのである。
現在の世界的経済危機がかりに不況ではなく恐慌であるとすれば、不況克服のための景気対策とは本質的に異なる、オーバーカットを前提した上でのラジカルな経済構造の転換が不可欠になる理由はそこにある。

U)需要刺激策の必然的帰結

現在の世界的経済危機がそうした自然の配剤に従うことが必要な恐慌状態であるかどうかについては、1930年前後の世界大恐慌と対比的に考察することが一つの手掛かりになるであろう。
29年恐慌の原因については、専門家の間でさまざまな解釈がなされている。今回の世界的な経済危機についてもさまざまな見方があるのは当然である。それらの点については、専門外の私などが口出しできる問題ではない。しかし、詳しいことが必ずしも本質的であるとは限らないので、論点を極度に単純化し、もっとも本質的と思われる点に絞れば、29年恐慌の根本原因は、19世紀後半以降の資本蓄積の増大に伴う生産力の高度化の帰結としての過剰生産に起因する需給の不均衡にあったといえよう。それに伴う企業の経営破綻が融資銀行のデフォルトを生み、信用収縮=金融恐慌となり、それが世界に波及したものであるといえよう。
それに対して、今回の世界的経済危機(世界同時不況)は、サブプライムローンの行き詰まりに象徴される信用バブルの破裂に伴う信用収縮=金融恐慌を契機とするものであった。こうした金融恐慌の契機となったサブプライムローン関連商品を多くの企業が買っていたため実体経済も、大きな打撃を蒙ることになったのである。それがさらなる信用収縮の連鎖を引き起こしている点に今回の金融恐慌の深刻さがあることは明らかである。
しかし、それだけだったなら、今回の世界的経済危機は金融危機で金融機関を救済すればほどなく鎮静化するはずなのに、ビッグ3の破綻(救済要請)やトヨタ自動車の50年来の赤字決算などに代表されるような多くの企業の工場閉鎖、操業停止、派遣、短期契約労働者などの一斉首切りになったのは、実体経済そのものが29年の場合と同様供給過剰であったために他ならない。そうした実体経済の過剰に基づく景気の後退を防ぐ役割を果たしていた信用バブルが崩壊したため、供給過剰の実態がいっきょに露呈したのが今日の不況というより恐慌の特色であるといえよう。サブプライムローンそのものが過剰生産力に捌け口を与えるための信用バブルの創出による景気アップ策的性格をもつものであったので、それが行き詰れば今回のような事態になるのは、当然の成り行きであったのである。
問題は、こうした帰結を孕んでいた供給過剰がたまたまの過剰生産ないし過少消費の産物ではなく、30年前後の恐慌を克服し、4人に1人といわれた失業者を救済するために採られた政策が供給に需要を合わせる有効需要増大政策であった点にある。そのため、恐慌の原因である絶対的供給過剰を是正するためのオーバーカットが十分に行われず、経済水準が実需以上の高止まりに終わった点にある。
ケインズの有効需要理論は、もとより、失業者救済のための短期理論としては適切で妥当なものであった。ケインズが、マルクス主義者によって戦争しか捌け口がないといわれた「資本主義の全般的危機」の救世主といわれた所以はそこにある。問題は、それ以後、景気刺激のために(有効)需要を供給に合わせる財政・金融政策が恒常化し、供給過剰になれば政府が需要創出をしてくれるため、経済活動の自動調整機構である需給のバランス回復機能が正常に機能しなくなり、慢性的供給過剰になってきた点にある。失われた10年時代に見られたような野放図の出店拡大競争とその破綻の原因はそこにあったのである。30年代以降、景気のアップ―ダウンはあっても恐慌がなくなったのも、政府が供給過剰の穴埋めをしたために他ならない。そうした対応が、経営者のモラル・ハザードと財政赤字の拡大を招いたことは改めて指摘するまでもない事実である。
1980年代以降、ケインズ主義に代わって登場した新自由主義の一つの理論的支柱をなしたフリードマンのマネタリズムも、供給過剰なら、それに見合うように貨幣をドシドシ無制限に供給すれば、ケインズ主義のように人為的な需要刺激政策を採らなくても、供給と需要が合致するからそれでよいという理論であるため、経済世界の自然法則であるオーバーカットによるバランス回復機能が働かず、供給サイドの高止まりになるだけでなく、景気刺激のための信用バブルを招くことになったのであった。それが破裂したため、その上に成り立っていた供給本位の生産体制が破綻したのは理の当然である。それは経済世界の自然の摂理を否定した現代資本主義の必然的帰結であったのであるが、新自由主義が、市場の自由の名において投機マネーの無制約の跳梁を当然視し、マネーゲームを助長したため、商品の需給関係をベースとする本来の市場原理の正常な機能を大きく阻害し、信用バブルを招く結果になったことは明らかである。
しかし、今日の事態の深刻さはそれだけが原因ではない。現代の資本主義は、1970年代中葉までのそれと違って、グローバル・IT・金融資本主義であるが、グローバル化は、その帰結として低賃金労働の世界的一般化⇒それに対応するための徹底したリストラ合理化⇒低賃金化、派遣、一時雇用制の増大を招くものであった。他方、70年代後半以降の脱工業社会化、その推進力としての生産過程の全面自動化、その極としてのIT化は、その必然的帰結として労働需要の減少、労働力の価値の低下、それと逆比例する情報・デザイン価値の上昇、その帰結としての貧富の両極化(中間層の減少)、労働人口の一部遊休人口化を招くものであった。それは、すべての人が自分の制作物やサービスを交換することから成り立っている経済生活そのものを奇形化するものですらある。今日の資本主義市場経済が本来の生産活動よりも、マネーゲームで利益をえようとする傾向を強めていることも、こうした生産様式の変化に基づくものといえよう。それが現代の現実である。
そうした現実の中で、日本経済は、徹底したリストラ合理化と外需の拡大で失われた10年を克服してきた。それが今回の金融危機で崩壊した現在、内需を拡大することによって経済の再建を図るべきだといわれるが、前述のような現実の下では内需の拡大は不可能である。外需があれば内需も拡大するであろうが、生産に必要な物資はすでに十分にあるので、世界的不況で外需に頼れず先行きに不安を感ずれば、一斉に買控えに走るほうが自然であろう。日本経済は外需(東南アジア方面)に過剰生産力の捌け口を見出す以外には、オーバーカットする他にはバランス回復の道がなくなっているのである。
他方、今日の世界的不況で職を失った人々は、政府が労働雇用を創出するか、いわゆるワークシェアリングで仕事を分けてもらうほか、就業が困難な状況に直面している。ネットカフェ居住者が急増し、路上生活を余儀なくされる人まで出ていることは周知の通りである。そうした人々に職を保障することは社会全体の責務であるが、ワークシェアは、有職者の生活に余裕があり、自由時間の増大に意義を見出す場合に実現可能な話で、仕事の分割が実際に可能な業務の担当者の大部分はギリギリの生活を強いられている現状では実際には容易にできることではないであろう。少なくとも、経営者が真っ先に言い出すことではない。とすれば、やはり政府が労働雇用を創出する他ないが、そのための方策としては、これまで日本政府がやってきたような公共事業に金をバラマキ、その波及効果で産業全体の活性化(需要と雇用の増大)を図るという、ケインズ主義的有効需要増大方式では、過剰生産力を温存する結果になる。オーバーカットにもならず、逆にすでに1000兆円近い財政赤字をさらに増大させるだけになるので採用すべきではない。後述のような現在の資本主義市場システムとは異なる地域共同体の構築に必要な施設や環境整備に失業者を直接雇用する方式にした方が、財政負担も少なくバラマキの弊害もないので、一石数鳥といえるであろう。そうした建設的な青写真なしに、「景気回復」という錦の御旗で何でもよいからバラマイテいたら、日本は早晩、景気対策のために沈没する他ないであろう。

V)恐慌脱出の道

社会主義は1990年前後に完全に崩壊したが、それに代わって唯一の勝利者になった(かに見えた)資本主義も、それからわずか20年足らずの間に完全に破綻し、崩壊の危機に直面していることを今日の世界同時不況は示しているのである。それが今日のIT・グローバル・金融資本主義とそのプロモーターの役割を果たした新自由主義がもたらした資本主義の現状である。そうした現代資本主義の陥った本質的矛盾が表面化せず、今日の世界的経済危機があくまで不況の大規模なものにすぎないかのごとく見えるのは、各国政府が事態の悪化を防ぐため連携して全面的な銀行救済をはじめあらゆる手段を使って、世界同時不況という名の恐慌が不況にとどまるように努力しているためである。事実、今回の恐慌も、昨年のノーベル経済学賞のクルーグマンが言うように、債務増を心配せずに巨額の財政出動をしてバラマケば、恐慌が恐慌にならず、不況という形で幕を閉じることになるであろう。しかし、それでは恐慌の解決にはならず、需要<供給が不均衡のままなので、政府がいつまでも無制限にバラマキ、タレ流しを続けない限り、肥大した絶対的供給過剰に需要がついていかず、早晩、国家財政そのものが完全に破綻することになる。すでに巨額の財政赤字に苦しむ日本がクルーグマンの勧告通りにしていたら、円は早晩、敗戦時と同様、紙切れ同様になることであろう。
今日の世界同時不況という名の恐慌に対処するため国家が銀行救済や失職者の救済・雇用確保、中小企業の破綻防止のために積極的に関与することはむしろ当然の責務であるが、そのための財政・金融政策は、増大する失職者や定年退職者などがそれぞれ自立・自足できる新たな経済生活システムの構築に資する事業に向けられるべきである。今日の事態は、むしろ完全に行き詰った資本主義システムとは本質的に異なる新たなシステムを構築する絶好のチャンスであるといえよう。そうした視点なしに何でもよいからバラマイテ景気を回復すれば良いというだけでは、旧状に復帰するだけで問題の解決にはならない。そうした対応は、今日のグローバル・IT・金融資本主義と、その機能の無制約的乱用者としての新自由主義が生み出した、世界経済の壊滅状況が示す資本主義そのものの破綻の現実から何も学ばないことになるであろう。新聞その他のメディアの論調が一様に今日の事態を重く見て、根源的な対応の要を説いている根拠はそこにある。しかし、根源的対応というだけでは問題の解決にならない。本格的な変革のためには、今日の事態が不況ではなく恐慌であるだけでなく、新自由主義が依拠していた現代のIT・グローバル・金融資本主義が、アダム・スミスに代表される18世紀の経済学者たちが構想していた人間相互の本来的経済関係そのものを奇形化し、労働力さえ売れない市民を数多く生み出す構造になっている事実の認識に基づいて、全国民が自立・自足しうる新たな経済システムを構築する要がある。
私はかねてから中高年コロニーを中核とする新しい地域共同体の構築による、都市と地域、市場経済と自然経済との二重経済システムの構築を提唱してきた。その内容については、当面、本サイトに掲載した拙稿、より詳しくは数年前に刊行した拙著(1)をご参照いただく他ないが、一言でいえば、豊かな自然に囲まれた地方に、子供の人格(体力・情操)形成、老人介護などの機能を都市から移し、それに生活農業、里山保存、都市住民の保養施設の管理などの地域独自の機能を加えた形で地域住民と連帯する、地域貨幣を交換手段とする、自然経済的共同体を中高年コロニーを中核に形成することによって、都市の市場経済と機能を相互に分担・交換するシステムを構築することが現代資本主義の矛盾を克服する一つの道ではないかという提案である。都市生活に見切りをつけた中高年者や非職者が地方にコロニー(集団生活ではない地域コミュニティ)を作り、生活農耕や里山保全、都市住民の保養施設の管理などをしながら、順送りに老人介護を担当し、クラス単位で長期滞在する小2−3年ステージの子供たちと共同生活をするコミュニティができ、都市との交流・連絡はボランティアがネットで担当することにすれば、都市より地方の方が貧しくとも豊かな人間中心の社会となるのではないか。
そうした形で地方の自立・再生を図ることが、地方と都市との格差是正や地域の都市化とは本質的に異なる地方の真の独立である。地方が都市とは異なる豊かな自然に囲まれた人間的な社会として自立し、都市の市場経済と機能を分担・交換し合う二重経済システムを構築することが、今日の世界的経済危機を克服する王道(royal road)でないか。財政支出はそのためにこそ投入されるべきで、市場経済の犠牲者もその建設に参加することで雇用だけでなく、自らの自足の道を見出すことになるのではないであろうか。
こうした提言は、もとより、工場閉鎖、操業停止、解雇などの厳しい問題に直面している企業や失職者にとっては、無縁の絵空事としか聞こえないことであろう。いかにして当面の危機を乗り切るかが死活の問題である人々が不況の脱出を願うのは当然である。しかし、問われているのは、新自由主義や信用収縮の影響だけではなく、現代資本主義そのものであるとすれば、当面の緊急手当は別にして、一刻も早く現状の事態の本質認識に基づく将来を見据えた建設的な方策を講ずる要があることには異論はないであろう。
未開から文明への進歩を主題にしていた18世紀の思想家たちは、アダム・ファーガスンやアダム・スミスの著作に代表されるように、文明の没落の問題を真剣に考え、自然の生態系の原理に即した人間の経済生活の本来の在り方の解明を主題にしていたのであった。そうした古典のうちにこそ現代人が顧みるべき真理が数多く隠されているのではないであろうか。(2)

(注1) 拙稿「文明と自然との共存の論理を求めて」(ちきゅう座スタディルーム、2006年5月15日)、拙稿『日本の明日を考える』第7話(実践社、2004年)参照
(注2) アダム・スミスの研究者が今日の事態に直面しながら何も発言しないのは、研究対象から何も学んでいないことになるので、あえてかなり不十分ながらスミス研究者としての視角から私見を述べ、提案をさせていただいた次第である。今回のような事態をも含めた現代世界の直面している問題に対するアダム・スミスの解答(教訓)については、拙著『アダム・スミスと現代』(御茶の水書房、2000年)と、上述の『日本の明日を考える』で具体的に詳述しているので、ご参照いただければ幸いである。

2009.1.23