5カ年にわたる景気回復の終焉

経済学者 細田 二郎

 日本の株式市場で株価の大暴落が生ずるようになってきた。本年の3月中旬には日経平均株価が約2年半ぶりに1万2000円以下に下落したが、この数値は昨年秋頃の高値水準に比較すれば4000円以上の値下がりで、株価の崩落は極度に顕著であるといえよう。もとよりこれは一面ではサブプライムローン問題に起因する米国経済の不振によって影響を与えられたものでもあろう。しかしながら世界の株式市場の中では、日本の株式市場での株価崩落の比重が最も著しいようである。これは現在の福田政権の政策が全く無策であることを示すものといえるかもしれない。けれども私は5年間にわたる日本のおける景気回復の終焉の予兆を示すものとみなしうるのではないかと思う。

 政府見解では、今回の長期にわたる日本の景気回復は、いざなぎ景気を超えたと誇らしげに述べている。それでは日本の一般市民・勤労者は、この回復に景況感を感じ満足してきたかといえば、大多数はそうではないように思われる。その理由は後述することとしょう。

 本稿では、長期にわたる今回の景気回復過程がいかなる性格、特徴をもつものであったかについて総括し、論述することを意図している。そのさい分析基準とするのは、19世紀イギリスの古典的資本主義を対象的素材としたような経済学の原理における景気循環論の一環としての好況過程である。

 政府の見解が昨年末まで景気は穏やかに回復しているとみてきたのは、鉱工業生産指数や企業の営業利益およびその他の景気指標が概して改善されているという点に依拠している。けれども、それではGDP成長率についてみると、03年からの5年間にわたる実質成長率は、年平均ほぼ2%にすぎず、名目成長率は01年からの5間年において年平均0.2%にすぎない点が、最近の研究者の論稿で明らかにされている。すなわち経済成長率はかなり低かったのである。ここで実質成長率が名目成長率よりもかなり高かったのはいうまでもなく物価上昇率がマイナスで推移してきたためである。すなわち、名目成長率から物価上昇率をひいた数値が実質成長率であるが、物価上昇率がマイナスであったために、実質成長率の方が高くなるという状況が生みだされてきたわけである。

 問題は今日までの日本経済が物価上昇率がマイナスのデフレ経済であったということである。景気が回復しているのにデフレ(物価下落)だということは、本来の原理からいえば全く不可解な現象なのである。なぜなる原理的な回復ー好況過程論では、経済システムの需要拡大によって産業企業の原材料に対する需要が拡大し原材料価格が高騰するし、また労働者の消費需要の拡大によって消費財価格も高騰し、一般に好況物価騰貴が発生するという見方が存在していた。経済学の学会でも、この好況物価騰貴というのは単なる通貨量の膨張によるインフレーションとは性格を異にするというようなことが、かっては論議されていた。この問題についてはこれ以上立ち入らないが、要するに回復過程につきものの物価騰貴が今回の回復期には生じなかったという点はきわめて異常といえよう。

 それでは、近年の日本ではなぜデフレが持続してきたのだろうか。この問題については、既に論議されたこともあるので、以下に簡単に記述するにとどめる。卸売物価や消費者物価の下落としてのデフレは既に1980年代から始まっていたが、90年代初めの平成不況に入って以後はいっそう顕著に現れるようになった。それはエコノミストによってもしばしば論じられるように、商品の供給に対して需要が不足するというためばかりではない。もとよりその要因もないわけではない。だがそれ以上に企業がグローバル化に伴う内外の競争が激化する環境のもとで、労働者をリストラしたり賃金カットをしたりして、あるいは生産拠点を海外(主に中国)に移転させて低賃金労働を利用することにより生産コストを削減したり、他方では技術革新による生産性向上によって商品価値の低下をはかることによって商品価格の下落に努めてきた結果であった。

 06年3月に量的緩和政策の解除にふみ切った日本銀行が、その後今日まで2回程金利を若干引き上げたとはいえその後も低金利政策に固執せざるをえなかったのは、景気回復下においても全くデフレが解消されなかったためである。すなわち日銀はデフレ克服を最優先課題としているわけである。そして日銀低金利政策の影響もあって市中銀行の貸し出し・預金の金利も低位に抑えられてきた側面もある。

 もっとも市中金利が低位の水準に維持されてきたのは、必ずしも日銀の金融政策の影響のみによるのではない。日本経済における資金需給の関係が緩和状態にあったためでもある。日本の大企業が資金過剰体制に入るのは、80年代からであり、これによって金融(金利)自由化の政策も推進されたのであるが、80年代には市中金利はそれ程低下することはなく、一定の水準は維持されてきた。90年代初頭の平成不況への突入以後市中銀行の貸し出し・預金の金利は低下傾向を辿るようになり、90年代半ばに日銀が低金利政策を始動するようになると、その傾向はいっそう顕著となった。要するに、10年以上にわたる長期不況期では大企業の有利な投資先が少なく、銀行資金は過剰気味であったが03年以後の景気回復期においても、同様な環境が持続してきた。(もっとも中小企業においては資金不足に陥る企業も多く、二極化が生ずるようになったが。)これによって市中金利は低位に維持されてきたのである。

 けれども、このように景気回復期においても市中銀行の貸し出し・預金の金利が低位にすえ置かれたということは、原理論的立場からいえば、きわめて奇怪な現象なのである。なぜなら原理論の回復ー好況論においては、回復が進展するにつれ、産業企業(資本)の原材料のような生産手段購入のための銀行への運転資金需要が次第にふえ、他方で順当な再生産過程の進行に伴う資金形成と銀行への資金供給が行われるにしても、金利は上昇していくとみられているからである。今回の回復過程において金利が上昇しなかったということは、内需拡大が進展しなかったことの半面であろう。

 それ故、今回の回復過程において物価も金利も高騰しなかったということは、異常な事象なのであるが、さらに異常な情況と思われることは次の問題であろう。

 すなわち、それはこの5年間を通じて勤労者の賃金がほとんど上がらないか、上がったとしてもごく僅少にとどまったということである。他方で大企業の営業利益は史上空前に上昇したものもあるという。それ故今回の景気回復過程では、利益をえた階層は大企業の経営者層や大株主のような資本家層であって、大部分の勤労者層は回復の恩恵に預かることは少なかったのではあるまいか。前述したように一般の市民、勤労者が好景気に満足していると思われないのもそのためである。

 それのみならず勤労者層の間でも正規雇用者と非正規雇用者との間ではかなりの賃金格差が生じ、派遣労働者、パート・アルバイトのような非正規雇用者は労働人口の3分の1を占める1700万人に達したが、年収僅かに平均200万円しかえていないという。賃金・所得格差は単に大企業における正規・非正規雇用間において生じたのみならず、大企業と中小企業においても生じているし、大企業が多く存在する大都市と、中小零細企業が多い中小都市との間でも、また情報産業・工業と農業との間でも生じていることは周知のところであろう。そしてこうした所得格差をもたらしてきた重要な要因が、2000年に入る少し以前からの企業の雇用関係における規制緩和・自由化にあったことはよく知られている。

 ひるがえって原理的な好況期の規定においては労働者の賃金はどうなるかについていえば、それは一方的に上昇していくとみられている。それは好況期の資本蓄積が相対的過剰人口(失業人口)を吸引しつつ進展するので、過剰人口が減少し、ついには零に近くなるので、労働力商品の漸進的な需給逼迫から賃金が上昇するとみられてきたのである。

 だがこの規定も、今回の回復ー好況の情況において貫かれなかった。それは、今回の情況では一方で格差問題という複雑な問題が発生してきたことにもよるし、他方では失業人口がどの程度吸収されているかについてあいまいな情報しかえられないが、ー例えば数年前には5%近い情況に達したが最近は3.6%といわれているー 失業者の吸収が十分進んでいるようには思われない点にも関連する。(もっとも局地的には労働需給が逼迫しているという見方もあるが。)それというのも、政府が公表する雇用統計がどこまで信頼できるか疑わしいと思われるからである。例えば、両親の介護のために一時職を辞することを余儀なくされる自発的な退職者を、政府は失業者として認定しているか。あるいは60歳定年で退職して後、新たな就職先を探しても容易にみつからず、就職を諦めるような退職者を失業者として認定しているか。こうした類いの人達がふえているかぎり、もし政府がこうした人達を失業者の中に含めていないとすれば、これを失業者に含めれば失業率はもっと上昇すると考えられるだろう。

 失業者やワーキングプアと呼ばれる貧困者がふえてきたにも拘わらず、わが国では生活保護や失業手当、母子家庭への手当のような社会保障支出はきわめて金額が少なく貧弱なものであった。それというのも中央政府も地方自治体も財政赤字の情況にあり、累積債務の合計額はほぼ1000兆円に達しようとしているからである。この累積債務は今後の日本経済の発展にとって、かなりの足枷になっていくことは間違いない。

 国家論が展開されていない原理論では、財政問題や社会保障制度の問題が取り扱われないのは当然である。それとの対比でいえば、現代の資本主義論では、財政問題が取り扱われ、年金、医療、失業対策のような社会保障制度の問題が重大な課題として登場し、一般市民、勤労者の期待を集めているのだが、この数年間の日本の財政状況のもとでは、ほとんどその期待に応えることのできない程の惨めな情勢にあるといってよい。

 さて以上では5年間持続したといわれる日本の景気回復過程を原理的な回復ー好況過程と対比しつつ総括を与えることに努めてみた。私は今年3月におけるような株式市場での株価大暴落をもって今回の景気回復は終焉したとみているのであるが、今後の日本の景気がどうなるかの展望を与えて結びとしたい。

 米国のサブプライムローン問題に起因する景気後退、消費低迷によって日本の対米輸出が落ちこむことによって、日本も景気後退に突入することが予見される。だが、後退の要因はそればかりではない。一方では、原油や石油関連製品の値上げ問題があり、他方では穀物やこれに関連する食料品値上げ問題がある。こうした物価上昇要因は一面では個人消費を縮小させ、他面ではインフレ圧力をもたらすかもしれない。けれども容易にはインフレ物価騰貴とはならないだろう。麺類、菓子、乳製品等の小売業者は値上げにつながらないような対応策を考慮中である。それよりは、問題は米国の景気後退の予想に伴うドル売りードル暴落とその半面としての急激な円高である。日本にとっては円高は一方で輸入品を安く購入できることによるデフレ要因であり、他方で商品を輸出しにくくなることによる不況要因である。それ故、日本経済はここ1〜2年は、より厳しい環境に入る転換期になると展望している。

2008.3.30