自由な計画的民主主義の概念を提唱する

東洋大学名誉教授 岡本磐男

まえがき 
 本年9月の民主党代表選挙の結果、菅氏が小沢氏に勝利し、菅政権が発足した。だがこの政権は、言語を絶する程の難題をかかえている。菅氏自身、その点はある程度自覚しているようであり、民主党のマニフェストの一定の実現のためには財政再建と経済成長の両立が不可欠との見解を提示している。だが、厳しい財政危機情況のもとで、経済成長など本当に実現できるのかといえば、その点には大いに疑問がある。

円高と国内経済の空洞化 
 まず今日では、ギリシア危機等を要因とする欧米投資家による円買いによって円高が発生している。菅政権は発足直後、為替市場介入によってごく僅か円安に誘導したが、この情況は一時的なものであり、基調としては円高傾向が持続していくものとみられる。円高は輸出企業による商品輸出を抑制する。採算がとれなくなる企業は海外への商品輸出ではなく資本輸出へきりかえざるをえなくなり生産拠点を海外へ移動させる。かなり以前から大企業はこうした対策をとってきたが、最近は中小企業でも円高によって経営環境が厳しくなり、中国をはじめタイやインドネシア等々多くの東南アジア諸国に生産拠点を移す企業が増えている。国内経済の空洞化である。この空洞化とは何を意味するのか。それは日本の資本主義が国家、国民を見捨てることを意味する。日本国民は資本主義によって生活しているのであるが、その生活基盤が失われる。実際海外に生産拠点を移した企業は、海外の現地労働者を雇用するし、技術者や監督者までも外国人を雇用する。日本人として日本に残るのは若干の経営者ということになろう。日本人の労働者の雇用は減少する。さらに海外移転した企業はどの国のGDPをふやすのかといえば、移転先の国のGDPをふやすのであり、日本のGDPは単に日本の本社に送金されてくる利潤部分にとどまるであろう。それ故に日本のGDP成長率などは減退していくことは当然である。さらに、円高が進展すれば、海外移転してさえも経営改善がのぞめない中小企業は倒産する以外に道はない。企業倒産が将棋だおしのように発生する可能性はありうる。現在の日本が直面している危機とは、このように資本主義では人々が生きていけなくなるかもしれないという構造的危機なのである。

資本移動の自由化 
 企業の海外移転に対して日本政府は、日本の法人税率の引き下げを検討する(海外諸国に対してそれは高いといわれている)とか、企業に対して補助金を出したり、移転しないように勧告するとかする方策以外は現在のところとりえないであろう。資本移動の自由化は、1980年代初頃から開始され、これが資本主義のグローバル化をもたらしたのであるが、このシステムを変えることは容易ではないことは判る。だがこれによって一国の企業倒産が激増し、国家の命運に関わるようになったとき、どうすればよいのか。ここではこの矛盾を指摘するにとどめたい。

日本の雇用問題 
 次には日本の雇用問題について論じたい。菅総理も選挙演説において、今日の日本における重大な経済問題は(1)に雇用、(2)に雇用、(3)に雇用であると叫んでいた。これは多分、今年度における日本の大学、高校における新卒者のうち10万人に近い人々が就職できていないという厳しい現実をさしたものだと思う。実際、若い新卒者の人達が学業をようやく終えて社会に巣立とうとするときに、社会に受けいれられず夢と希望を実現できず挫折させられるということは、これほど理不尽で悲劇的なことはない。さらに20才台から50才台へかけても340万人もの失業者達がいる。だが現在の保守政治家には、現在の就職希望者を就職させうる現実の具体策があるのか否か疑問を感ぜざるをえない。前期の企業の海外移転の問題を考慮しても失業人口は今後も増え続けると思わざるをえないが、政治家には失業者を発生させないという責任がある以上は、そのような新しい社会システムを構想することが肝要なのではあるまいか。そのさい財政面から新たな需要を創りだすというようなケインズ主義的発想はも早とりえない。需要創出のための政府・地方の累積債務の累積は限界に達しているからである。

日本の格差問題 
 現代日本の雇用問題は単に失業問題にかぎられるわけではない。格差問題も存在するからである。今日では約3000万人に及ぶ正規雇用者がいるのに対し、その半数に近い非正規雇用者は、年収約200万円以下しかえられないワーキング・プアとして存在している。両者の年収の格差はかなりのものである。また大企業の労働者と中小企業の労働者との間の賃金格差もある。さらに大都市の職場と地方の職場との間でもかなりの所得格差がある。このように賃金や所得の格差は種々の社会的立場において存在するが故に、もろもろの視座から捉えることができる。従来よく使われていた企業の管理、監督労働を担うホワイトカラー(サラリーマン)と現場労働者としてのブルーカラーの相違という言葉は、最近では正規雇用者対非正規雇用者という用語が正面から使われるようになったために、メディアでも使用されなくなったが、実態としては存在しているに相違ないと思う。あるいは正規雇用者の一定割合の部分はホワイトカラーなのかもしれない。なぜこの点にこだわるのかといえば、大企業のホワイトカラーの最上層に位置する大企業経営者の報酬について一言しておきたいからである。その報酬は、低賃金にあえぐ非正規労働者の20倍、30倍、あるいはそれ以上になっていると目されるからである。

格差の解消策 
 このようにみるなら、今日の格差社会として捉えうる情況は、資本主義が、古代や中世の社会と同様な階級社会であったという現実を白日のもとに晒すこととなろう。しかも私が憂慮するのは、日本社会のこうした所得格差とこれに依拠する資産格差は、当局が富裕層に対して高率の贈与税や相続税をかけて収得しないかぎり子々孫々にわたって固定化するということである。大株主や経営者のような資本家層の人達は、自分たちが富裕となったのは、自らの能力や資質や努力の賜物であるというであろう。また貧困層の人達に対しては、彼等には能力がない、努力が不足している等と論ずるであろう。他方、貧困な労働者の方でも、自分には社会的な強者になるに相応しい資質がなかった等と思って諦める人がでてくる。だが真にそうなのであろうか。その考えは一昔流にいえば、ブルジョワ・イデオロギーというものではないか。私は決して人間社会の進歩にとって競争が有意義であることを否定するものではないが、いかに激しい競争によっても個人の収入が30倍にも50倍にもなること等は決して信ずることができない。極度の格差が生じるのは、社会のシステムやメカニズムがおかしいのではないか。それ故、政府当局者が富裕層から貧困層へと所得を再分配することには賛同する。

経済の統制化が必要な理由 
 だが問題はそれだけで十分かということである。私は十分ではないと考える。それは、今日のように日本の資本主義が崩壊に直面しているときに、所得の平等化政策などは政府は決してとりえないからである。貧困者は将来への不安を感じて消費をしようとはしない。だからこそ経済の再生産は益々縮小してしまうわけである。だからこそ私は、経済の統制化、計画化が必要となるとみているわけである。日本の現状においては、統制化に有利となると思われる条件が一つある。それは今日では日本ではー実は世界的規模においてではあるがー消費財としての生産物が過度に存在し、あり余っているということである。他方で失業者が大量に存在しているということは、きわめて不可思議な現象であるが、これが資本主義の矛盾から発生する現実なのである。

計画的社会に関する理解を深めよ
 今日の菅内閣は地方財源を拡充し地方主権を強化する方向で社会の変革を考えているようである。だが私はこの方向では社会の変革ができるとは考えない。メディアを含めて今日の政治家達がこの難局にのぞんで計画的社会について全く論じないのは不可思議に思われる。それはやはり20年前のソ連、東欧の政治経済体制の失敗に由来するものであるかもしれぬ。この失敗については多くの議論が必要なので本稿ではとり扱いえない。だが社会主義体制でなくとも計画のある社会は存在した。日本の古代、中世の社会および徳川幕藩体制下における共同体経済においては明らかに貨幣による商品売買を伴わない計画経済システムが創出されていたのであってこの点により多くの注目が払われねばならぬであろう。昭和8〜10年(1933〜35年)の時代では日本でも統制経済や計画経済の論議が盛行していた。そして私のように第2次世界大戦を経験した者は、実際に食糧配給制度のような統制経済を体験した。私は戦争末期には中学3年で勤労学徒として働いていたが、昼食にはたった握り飯2個しか配給されないような貧しく質素な生活ではあったが、それでも大変な生き甲斐と達成感を感じていた。米軍との戦いにおいて勝利するという共通の目標をもっていたせいか、友人間の友情は熱く共同体意識は強かった。あれは何だったのだろうか、と今にして思う。却って終戦後になって学校に戻り市場経済のもとで生活するようになってー終戦直後の3〜4年間は生産力が回復せず戦争中よりも苦しい生活を余儀なくされたがー友人との関係において気持ちが離れ淋しい思いをしたものである。そうした体験から私は統制経済をそんなに悪いシステムとは思っていない。

生産手段の社会的所有への転換を図れ 
 以上に論じたように私は早晩日本は、市場経済システムのみでは人々は生きられない情況が到来すると思っている。それ故に本稿(その1)で論じたようなラスキの所説における計画的社会の如きシステムを構想することが肝要である。では日本では計画的社会はいかにして創出できるだろうか。私は以下のように考える。まず中小企業が倒産すれば日本政府はその企業の株式を取得して企業を一時的に国家所有にすることである。もとより今日では、国家財政の情況は極度に厳しく、株式取得が困難であることは承知しているが、倒産企業の株価は従来の価格の5分の1、10分の1に下落しているだろうから、政府は公共事業投資などは一時的に中止してもこれを購入するように全力をつくすべきである。それはいつまでも国有化するというのではなく、経営が軌道にのれば持分(権)を他の公共機関に譲渡したり、従業員に配分したりすればよい。ともあれ生産手段の私的所有を廃止し社会的所有に変換するように努力することである。

中小企業を生活協同組合へ転換させる 
 全体の企業数の九割以上を占める中小企業が公的機関によって所有されれば、経営者は利潤追求をやめ生活協同組合方式をとるようにする。利潤追求型の企業ではなく、消費者が要求する消費にみあった生産活動を行う協同組合を創出するようにする。そのさい47都道府県に分割されている日本列島を同様の複数単位に分割し、例えば1つの県の県民が要望する消費財の数量を県自治体が把握するような方式を通じて、その数量に見合った生産を行うように生活協同組合のシステムを活動させるように計画する。これを漸進的に行うことは今日のコンピュータ技術をもってすればそれ程困難なことではないと思われる。このようにして生協の組合ーこれは今日のNPOやNGOのような社会的企業の一環、とくに主要な環となるーをふやし、これによって供給される消費財によって、誰もがが生活必需品に事欠くことがないような、安心安全のシステムを作り出していく。中小企業が生活協同組合に転化することによって、この分野での利潤追求はなくなり、市場経済は廃絶され、貨幣流通は廃止される。もっとも貨幣が廃止されても、物々交換制になるわけではない。消費者がデパートやスーパーで消費財を取得するさいには、市場経済下の貨幣とは異なる指図証券のようなもの(かっての配給券に類似した紙券)が必要となるが、政策当局がこれを発行し消費者に配分する。消費財の価格はいかにして決められるのかの問題があるが、この問題はやや専門的になるので本稿では割愛せざるをえない。とも角こうした社会システムが形成されていけば、前述の計画化社会が顕在化することになろう。こうした社会が出現すれば、労働者の労働時間は現在よりはるかに短縮できよう。また労働者の定年制などはるかに延長されうるだろう。

混合経済体制を創り出す 
 大企業の生産活動については触れなかったが、その大部分は海外に進出しているからである。だが国内においては市場の分野が残るであろう。それ故に当分の間ー100年間位かかるかもしれないがーは、市場の分野と計画の分野の混合経済体制となろう。だが考えてみれば、古代社会の後半から中世社会にかけて、また徳川幕藩体制においても、市場の分野は計画の分野(共同体経済の分野)に比してごく狭隘であったかもしれぬが、つねに混合経済体制であったのである。

おわりに 
 飜って考えてみるまでもなく、古代以後の人類史においては、それがいかなる態様をしていようとも計画経済のシステムが主要な流れであった。生産力が低い発展段階においても、貧困や格差はあったかもしれないが、とも角人間は生存してきたのである。日本では資本主義の市場経済システムがとられるようになってから約140年経過したが、その間の生産力の増進はめざましいものがあった。また明治初期から現在までの人口の増大も2倍をはるかに超えたものだと記憶する。それに比較して生産力の増進はさらにはるかに倍率の高いものだったと思うが、にも拘わらず今日貧困に苦しみ、生活できない人が激増している。明らかに社会経済システムがおかしいのである。

2010.10.11