浜矩子『グローバル恐慌』(岩波新書.2009年)について論評する

東洋大学名誉教授 岡本磐男

 浜氏のメディアでの活躍ぶりが注目を集めている。「ちきゅう座」サイトでも同氏の文章を取り上げる人がいたが、批評というまでにはいたっていない。評者は、表題の著作を最近になって入手し熟読してみた。共感を覚える個所も少なくはないが同時に評者の意見とはかなり異なる見解が展開されていることも分かってきた。それ故、以下では同書の主張の概要を示すと共に、これに対する評者の批判的見解を提示してみたい。

 本書の刊行は09年1月20日とされている。それ故多分08年の10月から11月頃にかけて書かれたものであろうから、著者の世界経済の現状認識はなみなみならぬものであると感嘆する。本書は第5章から構成されている。以下では第1章からごく簡潔に素描しておこう

 第1章(何がどうしてこうなった)では、昨今、明るみにでた「サブプライム・ローン証券化問題」について詳細に考察する。そしてこの問題が世界中に拡散し、世界金融危機が生ずるにいたるのは、その背景に世界的な金余りが発生していたためであるとする。そしてこの金余りの最大の要因は、世界の最大の債権国である日本のマネーであり、これがいわゆる円キャリトレードによって外貨に転換されて海外に流出したものであるという。「その流れに乗ってあふれ出るジャパンマネーが、世界的な過剰流動性景気を地球経済にもたらした。」とみる。そしてさらに今日の日本は「一種、基軸通貨的な機能をになうようになっている」といい、今日のグローバル時代では「円はいわば隠れ基軸通貨である」としている(38−40頁)。

 第2章(なぜ我々はここにいるのか)では、1980年代から米国では金融システムの大変動の時代を迎えるのであるが、それは金利自由化、金融自由化および金融証券化が発生したためであるという経緯を解明の中心課題とする。米国では1933年の銀行法いわゆるグラス・スティーガル法によって、主に銀行と証券の業務の兼業が禁止され、かつ銀行の定期性預金金利に関する上限規制によって預金金利は低位に抑えられていた。だが1970年後半以降のインフレ進行によって、証券会社は高利回りの金融商品を販売するようになるが銀行は預金金利規制があったため銀行の資金が大量に証券会社に流出するようになった。そのため銀行業界の不満は高まったが、金融当局としても銀行預金金利を自由化せざるをえなくなる。これを出発点として金融自由化は一層進展する。金融技術革新の進展もあって銀行によって多種多様な高利回りの金融商品が販売されるようになる。しかも金融のIT化が進むにつれ、例えば大規模小売業が、子会社方式で金融、証券、保険、不動産等の金融サービス事業に参入するようにもなる、と論ずる。かくして金融スーパーマーケットが生ずるようになるが、その新たな売れ筋商品の一つとして、「ひときわ華麗に登場したのが、かの証券化商品である。」債権の証券化というのは−銀行のサブプライムローンを証券化するように−銀行の貸出債権を証券化して投資家に売却することである。これを著者は「債権の福袋化」と呼んでいる。(63頁)そしてこうした証券化商品の売買に深く関与した金融業者は第1に投資銀行であり、第2にヘッジファンドであるとみている。

 第3章(地球大の集中治療室)では、米国金融機関による世界の金融機関に対する証券化商品の売却とその価格低落によって、地球経済は挙げて集中治療室に入った格好になっていると述べ、政府による金融安定化のための、それ故金融機関救済のための施策としては、金融機関の不良債権の買い取りと金融機関への資本(国家資本)注入の政策があるが、その政策効果の違いや、米国とヨーロッパでは、政府のアプローチの仕方に相違があった点等について詳細に議論している。

 第4章(恐慌を考える)では、著者が今回の世界同時不況といわれる現象に対して書名を『グローバル恐慌』と名づけて解明している点からも認められるように、恐慌とは何かという問題に関心を払い、これに解答を与えようと努める。そして経済学事典にも書いてあるような、「過剰生産に基づく資本主義固有の矛盾の爆発」といった規定を踏襲し、さらに「均衡点から遠ざかり過ぎた経済が、原点に向かって急回帰する。それが恐慌である」(120頁)と論ずる。そして、歴史的、具体的に生じた恐慌の事例として、イギリスにおける18世紀の恐慌とか、1825年恐慌以後、36年、47年、57年と10年毎の周期性をもってくり返された循環性恐慌についても言及されている。さらに第1次大戦後のアメリカの恐慌、とくに29年の大恐慌についてもかなり詳細に観察される。次に21世紀型グローバル恐慌とは、いかなるものかについて言及される。この点について、次章にまで引き継がれる注目さるべき発言がなされているので引用しておこう。「元来、資本主義経済の中ではモノとカネは一体となって動くはずだ。だからこそ『過剰生産に基づく資本主義固有の矛盾が爆発』することになるわけである。ところが、今回はむしろモノとカネが決別状態に陥り、カネの世界が一人歩きを始め、やがては暴走することによって、今日に至っている」(137頁)と。

 第5章(そして、今考える)では、「カネの世界が暴走する」という上記の見地がいっそう強調されて次のように展開される。「カネの世界で発生した恐慌が、モノの世界の同時不況化をもたらしているのである。今回のグローバル恐慌は、モノの世界と決別したカネの世界の暴走が招いたものだ。」「グローバル恐慌は、企業の資金調達難という形で確実にカネの世界に伝播する。」(155−58頁)という。ここでは著者は、金融と実体経済の過程をカネの世界とモノの世界というように2項対立で捉え、今回の世界同時不況が、金融の暴走に由来する実体経済面での企業の資金調達難によって発生しているとみていることが明らかとなる。このようなグローバル恐慌のゆきつく先はどうなるか。著者は、それは統制経済に至る道ではないかと懸念を表明する。それは、資本主義国の経済での脇役であった公共部門が主役の座を占め「市場から銀行も企業も人々も立ち去る中で、気がついてみれば…中央銀行と政府しかいなくなる」状況に追いこまれるためである。これは統制経済への道である。恐慌は経済活動の均衡点の原点を模索する自浄作用だが、統制経済下では、この原点回帰の力学が働かず、矛盾と歪みがひたすら継続する。「統制は経済にとっても社会にとっても、死に至る病だ。経済活力は低下し、社会は創造力を失う。」と結論する(177頁)。

 08年末の短期間のうちに世界同時不況に関する著作をまとめた点は評価できる。また数多くの示唆に富む言葉に出合うのも確かである。だが評者の見地からすれば受け入れがたい問題もあるので以下その点を論述したい。

 さて第1に第1章では世界金融危機の発生の要因に、日本および世界における金あまりという現象があると著者はみている点を指摘した。のみならず著者は、数年前からの日本のデフレについても言及している。デフレでありかつ金あまりであるというとき、その金は通貨(流通手段として機能する貨幣)ではないといわねばならぬ。なぜなら、通貨が過剰になった経済ではインフレが発生しているといわねばならぬからである。インフレが発生していない経済でのもとで金あまりがあるというのであれば、その金は、通貨ではなく、資金(蓄蔵貨幣、または貨幣としての貨幣)であるといわねばならぬ。通貨とは今日でも商業銀行が信用創造によって創出する預金通貨に限られるのであり(日銀も日銀券という現金を創出することはできるが、これはひとまず度外視する)その他の金融機関としての金融仲介機関(その多くは中長期の金融機関で、投資銀行やヘッジファンド等も含まれる)は、通貨ではなく資金をとり扱っているのである。それ故今日では通貨は収縮しているが資金が過剰となっている時代といえよう。こうした理解は著者には決定的に不足している。例えば数10年前からユーロ・マネー市場(EUの通貨ではない)では、資金が膨張するといわれてきたが、それはユーロ市場で操作するユーロ銀行は金融仲介機関であり、米国の商業銀行にドル残高をもっているが、ユーロ銀行へ資金を預け入れるA企業、ユーロ銀行から資金を借り入れるB企業、Bから支払われるC企業なども同じく米国の商業銀行にドル残高をもち、Aのユーロ銀行への預金、ユーロ銀行のBへの貸し付け、BからCへの支払い、Cのユーロ銀行への預金などは全てドルの現金で行うのではなく、米国商業銀行のドル預金に対する指図証券をA→銀行→B→C→銀行へと手渡すという方法でユーロ・マネー(資金)は膨張していくのである。同時に米国の商業銀行預金の名義書換え(通貨の移動)が行われているのである。さらに著者がジャパンマネーに触れ、円が「いわば隠れ基軸通貨である」などというのもおかしい。ジャパンマネーという場合、日本の対米経常収支の黒字部分が米国の商業銀行預金となっているその部分を主に指しているとみられるだろうが、このドル預金こそが主に基軸通貨ドルを指しているのである。(著者は基軸通貨が商業銀行預金だという認識が明確でない)同時に円が基軸通貨だと主張したいならば、日本の商業銀行の外国人による円預金の振り替えによって日本以外の第三国間の貿易決済が行われていることを検証しなければならないが、これはむつかしいだろう。

 第2に恐慌の理論や歴史については第4章で考察されているが、研究対象が膨大でありすぎるためか、やや理解が浅い感じを受けた。とくにマルクス経済学者にとっては恐慌論や恐慌史の研究分野については厚い蓄積がある。例えばかってP・スウィージーはマル経の恐慌論について生産と消費の矛盾による実現恐慌論と、利潤率低下を要因とする恐慌とに分け、前者を商品過剰説、後者を資本過剰説と呼んでいたと思う。(1943年頃)そしてその後の日本人研究者の中でも、19世紀イギリスの1825年以後の循環性恐慌について、好況末期の賃金の高騰(および原材料の高騰)に伴う企業の利潤率低下から恐慌を解明しようとする論調を提言する人が多かったようであるが、この第4章ではこうしたことには何も触れられなかった。

 第3には、本書では、著者は、第4章、第5章においてカネの世界とモノの世界という2項対立の形で恐慌現象を説明しようとしている点は、カネの世界という場合、通貨と資金の区別をみていない点で難点があると指摘したが、さらにいっそうの展開においても、問題がある。(因みにケインズ理論においても、社会の総貨幣量MはM1とM2に分割されるが、M1は実体経済の変化に応じて変動する貨幣として、M2は利子率の決定にあずかる貨幣として捕捉されている)なお、この点に関連してやや説明を敷衍しておけば、現代の貨幣は、商業銀行が通貨(預金)の創造によって創出されるようでありながら、窮極的には実体経済(資本の再生産過程)における利潤形成に依拠して供給されるのだ、という点を追加しておこう。さらに現代の世界不況では、各種商品の生産過剰、通貨流通の過小、資金過剰が同時に顕在化している点をいっておきたい。著者による第5章でのいっそうの展開とは何かといえば、「カネの世界での暴走がモノの世界での不況をもたらし、グローバル恐慌をもたらしている」とみている点である。はたして米国発の金融危機が実体経済面の恐慌をもたらしたのであろうか。私はこうした把握の仕方に賛同できない。世界の金融機関が買いいれた証券化商品の価格が暴落していくのも、もともとは米国の低所得者向け住宅の価格が、その住宅の過剰生産により07年春頃より下落傾向に転ずるようになったことにその契機を見出しうるのではなかろうか。そうとすれば実体経済面での過剰生産こそが、その後の世界金融危機の要因となったのではあるまいか。事実、多くの工業製品、例えば自動車や家電製品等も08年秋のずっと以前から過剰生産にしたがってまた販売困難に陥っていたと記憶する。したがって今回の世界同時不況においても、実体経済面での困難が世界金融危機においていっそう顕著にあぶり出されたとみられるのではなかろうか。なお著者はモノの世界での困難を企業の資金調達難として把握しているが、評者はむしろ企業の製品の販売困難の方が根本原因と捉えている。

 さて第4には、著者がこのままでは資本主義経済が統制経済に移行しかねないと危惧している点に論及したい。著者は恐慌は経済活動が均衡点という名の原点を模索する自浄作用だが、統制経済下ではこの原点回帰の力学が働かないので、経済は健全さを取り戻しえないから活性化しなくなるとみている。ここで経済の均衡点といっているのは、需要と供給の均衡を考えているのだろう。だが統制経済のもとで政府が諸製品の価格を設定し(この価格設定をいかに行うかについては大きな問題があるが、いまは問わない)国民の需要量に対して供給量を合致させるように計算を行うなどということは、今日のコンピュータ技術をもってすれば容易に行えることだろう。

 評者も今日の日本のように自殺者が年間3万人以上、失業者が360万人、ワーキングプアが1000万人以上といわれる程の過酷な社会になってくれば、統制経済の導入も視野にいれるべきではないかと考えている。第2次世界大戦の終焉のさいに15歳であった評者は、著者とは違って戦時中の3年間程の食糧配給制度を知っているからである。もとより生産力が極度に疲弊していたあの当時の食糧の配給は今思えばまことに貧しいものであった。中学3年生の頃は学徒勤務動員で飛行機工場に働きにいっており、昼食には2個の握り飯しか配給されなかったが、それでも勤労学徒達は−戦争に勝利するという目的があったからかもしれぬが−友情に厚く共同体意識が強かった。自殺やいじめやひきこもり等考えられぬ時代だった。今日程の生産力過剰の時代であれば、いかに統制をしてもかなり豊富な生活ができるのではないかと思う。本当の食糧難、食糧危機は戦後になって訪れた。戦後は自由経済ではあったが、昭和23年から24年へかけてのインフレの時代になって食糧危機はもっともひどかったように思う。農家に買い出しにいっても決して食糧を売ってくれることがなかったことを思い出す。こうした体験から評者は統制経済がいちがいに悪いとはみていないのである。

 岩波新書であれば、学問の進歩をめざしているのだろう。それ故やや手厳しいとは思われるかもしれぬが、以上のような学問的批判を試みた。

2009.12.09